川添登氏永眠
建築批評、文化活動に多大な功績残す

更新日2015年09月01日

建築評論家の川添登氏が、2015年7月9日、肺炎のため亡くなった。享年89。建築評論を中心に多様な活動を展開してきた川添氏を偲び、その生涯を振り返ってみたい。

川添氏は1926年生まれで、早稲田大学専門部工科、早稲田大学文学部哲学科心理学専攻を経て、'51年に早稲田大学第二理工学部建築学科3年次に編入する。その後の'53年に新建築社に入社、「新建築」の編集長を務めた。そこで川添氏は、丹下健三の論考を発端に多くの建築家・芸術家を巻き込むこととなったいわゆる「伝統論争」を仕掛けたほか、建築評論を本格的に執筆・掲載するなどして、建築ジャーナリズムの質的向上に大きく寄与した。'57年に「新建築問題」[※]をきっかけとして同社を退職した後は、建築評論家として執筆活動を行い、『民と神のすまい 大いなる古代日本』(光文社 1960、毎日出版文化賞受賞)や『建築の滅亡』(現代思潮社 1960)などの書籍をはじめ、その生涯を通じて旺盛な言論活動を続け、日本の建築界において建築批評・建築評論の確立に大きく貢献した。

また、'60年には世界デザイン会議の幹事長となり、この仕事と並行するかたちで、浅田孝、粟津潔、栄久庵憲司、大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、槇文彦らとメタボリズムを結成し、これを同会議で海外に知らしめ、大きく躍進させることに成功した。

さらに、'70年の大阪万博ではサブ・プロデューサーに就任し、空中テーマ館を担当。その後、メタボリストの一部と小松左京、加藤秀俊ら文化人とともに文化系シンクタンクのシー・ディー・アイ(コミュニケーションデザイン研究所)を設立。'72年には日本生活学会を設立。そのほかにも、日本点字学会、道具学会を設立するなど、建築と他ジャンルの人脈をつなぎながら、建築の領域を超えて広く文化的活動を展開した。

川添氏が残した功績は計り知れない。

※ 新建築問題とは、「新建築」1957年8月号で、村野藤吾の作品「有楽町そごう」に対して批評的な記事を編集部が掲載したことに対し、当時の社長の吉岡保五郎が編集部全員に解雇を通告した事件を指す。川添氏自身はこの特集の編集にはかかわっておらず、したがって解雇通告も受けていないと後に述べている

MONTHLY NEWS (建築知識2015年9月号)

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