高橋靗一氏、逝去 群馬県立館林美術館などを設計

更新日2016年05月01日

2016年2月25日、建築家の高橋靗一(たかはしていいち)氏(第一工房・大阪芸術大学名誉教授)が帰らぬ人となった。享年91。

高橋氏は、佐賀県立博物館や群馬県立館林美術館、大阪芸術大学芸術情報センターなどの公共建築物を手がけ、日本建築学会賞や村野藤吾賞、日本藝術院賞など多くの誉れに輝いた。同氏を偲び、第一工房出身の方々に追悼文を御寄稿いただいた。


――針生承一氏(針生承一建築研究所)

突然の恩師の訃報に驚いております。この間までお元気にされていたのに、もっと長生きして欲しかったと悔やまれます。60歳過ぎても平行定規でスケッチをされ、模型まで自ら創る、デザインに対しては鬼のような執念の人でした。設計を進めるにあたって、都市的・歴史的な観点を重視されていました。高橋さんの個性が特に大胆に現れていたのは、ディテールから全体へのたゆみなきエスキースではなかったかと思われます。まさに細部に神が宿る、手技(てわざ)の心でした。一方、建築家としては稀有なほど高潔で高尚な人でした。特に設計入札はすべて辞退し、これをなくしたいと主張しました。それは次世代の建築家に対する責任であるとも仰っていました。「仕事を欲しがっていろいろな相手に頭を下げれば下げるほど、作品の質は下がる」と教えられました。このような姿勢で60有余年第一工房を率い、多くの作品を創り、数多の教え子や建築家を育てられました。好奇心が強くて、多趣味、いわゆる数寄の人でした。優れた友人にも多く恵まれ、その創作態度とうってかわって軽妙洒脱で粋なお人柄が、老若男女問わず皆から慕われました。まことに人間味のある巨匠でした。お疲れ様でした。向こうでも、大好きなデザインをゆっくり楽しんでください。


――佐村貴久氏(レシオデザインスタジオ)

「おーい佐村、居るか?」と高橋さんの声が事務所に響く。「家に帰ってから考えたんだが――」と、描かれたスケッチの説明が始まる。議論して新しい考えが浮かぶと自ら字消板と消しゴムを手に取り修正する。すんなり結論が出ることは稀で、頭を抱えていると「お前の脳みそは手にあるのだから描かなきゃ分からないだろ。描いてみろ」となる。このようなやりとりが事務所を去るまでの僕の日常だった。大阪芸大での教え子であり、単純な性格の僕は話しやすかったのだろう。雑談になることが多かったが、そんな会話が僕の財産になった。高橋さんの好みの1つに三角形のパターンがある。飛行機から建築に転向した高橋さんだから飛行形態由来かと問うと、「点や線では形にならない。3点になって初めて形が生まれるんだよ」。シンプルさに呆気にとられた。高橋さんにはドラスティックな印象を持っていたので「オーディナリーな建築を作りたい」と語っていた点には僕は矛盾を感じていた。しかし普通であることはむしろ難しく、根源に戻り新たな視点で普遍性を求めていたのではないかと今は思っている。初期航空機エンジンから進化したロータリーエンジン車に乗っていた高橋さんに、そんなこだわりの一端を垣間見た気がする。


――林昭男氏(滋賀県立大学名誉教授)

2016年になってお見舞に伺おうと思いながら、それを果たさずお別れしてしまったことが悔やまれます。思い返すと高橋さんと初めてお会いしたのは、1958年4月、私が武蔵工業大学建築学科に就職した年です。その際、雑談の後、「林さんはコンペ好きですか?」それが高橋さんの最初の問いかけでした。「はい、好きです」と即座に応えたのでした。後で知ったことですが、高橋さんは、逓信省のグループで「シドニー・オペラハウス」や、近鉄沿線の住宅コンペなどに応募されていました。コンペの話で意気投合したといえます。当時、高橋さんは代官山の自宅の庭先に小屋を建て、設計室としていました。私は大学からの帰路、足繁く設計室に通い、住宅設計やコンペ応募を手伝いました。間もなく、「第一工房」を設立(1960年)、その後も「国立劇場」、「京都国際会館」などのコンペに応募し、落選が続きましたが、「浪速藝術大学(現・大阪芸術大学)学園建設総合計画」「オリンパス山国際建築設計競技」(1964年)で入賞を果たすことができました。出会いからおよそ30年間、建築設計のパートナーとしてお付き合いいただき、建築をつくることへの真摯な姿勢に接することができ、私を導いてくださったことに深く感謝しています。合掌。

高橋靗一 1924年、中華民国青島市生まれ。’49年東京大学第二工学部(現東京大学生産技術研究所)建築学科卒業。同年逓信省営繕部設計課入社。’60年第一工房を設立。’56年~’66年武蔵工業大学(現東京都市大学)助教授、’67~’95年、大阪芸術大学教授、’96年~大阪芸術大学名誉教授。2016年2月25日逝去。享年91

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