小嶋一浩氏、逝去 享年57
更新日2016年12月01日
学校建築に多大な功績を残した建築家の小嶋一浩氏が2016年10月13日、帰らぬ人となった。
享年57。小嶋氏を偲び、ゆかりある方々に追悼文をご寄稿いただいた。
――赤松佳珠子氏(CAt)
私が学生のころ、シーラカンスは新進気鋭の若手建築家集団として一世を風靡していました。学部4年時にアルバイトに行った私は、みんなでひたすら議論をしながら設計を進めるその雰囲気に圧倒されながら、私もこのなかの一員になりたいと切望しました。小嶋さんが31歳の時でした。
小嶋さんは常に慣例や制度に戦いを挑み、新しいこと、自由であることを目指していました。そして、自分が納得しないのに妥協するなんて、そんなカッコ悪いことやりたくない。それが、小嶋さんの生き方そのものでした。そのカッコいい生き方こそが最高の教育だとも考えていました。
そんな小嶋さんの教え子たちは、小嶋さんがいかにカッコよかったかを熱く語ってくれます。多くのOB・OGが小嶋さんの後姿を追いかけていました。いつかコンペで戦って、小嶋さんを負かしたい。みんなが目標にしていました。小嶋さんは、まだそんな奴らには負ける気はしないけどね、と言いながらも、でも、もう、そんな奴が出て来てもいいはずなんだけどな、とも言っていました。
これから先、私たちはずっと、小嶋さんならどう考える? どう怒る? どう言う? と、私たちの中にいる小嶋さんに常に問いかけ続け、会話をしながら生きていくことになるでしょう。私たちは小嶋さんが考えてきた新しい建築、人としての潔さ、カッコよさを受け継ぎ、未来へとつないでいきます。きっと私たちが行く先々に、小嶋さんがいてくれる。そう信じて。
――小泉雅生氏(小泉アトリエ)
小嶋一浩さんとは、東京大学原広司研究室で出会って以来だから、30年を超えるつきあいとなる。大学院の研究室の先輩であり、「シーラカンス」という設計組織を在学中に立ち上げたときの仲間でもあった。仲間といいつつも、シーラカンスでは小嶋さんが最年長、私が最年少で、思い返せば小嶋さんに刺激されることばかりだった。その後、大阪国際平和センター、千葉市立打瀬小学校、吉備高原小学校、ビッグハート出雲といったプロジェクトで協働したが、小嶋さんは、シンボリックな形態をめざすのではなく、「アクティビティ」に着目して建築・場を形作ることを常に意識していた。それは、現象面から建築を規定するという、新たな計画原論を構築する試みであった。最新の流山市立おおたかの森小・中学校では、その骨太な計画学が切り開く繊細な建築の地平を存分に見せてくれた。
大学院在学中に作品を発表するという希有なスタートを切った小嶋さんだったが、残念ながら幕を下ろすのも早かった。なぜこんなに早くにと惜しむ気持ちもあるが、短い間に多くをなしとげた生き様は強烈なインパクトを残した。最後まで小嶋さんらしく、刺激的だったし、かっこよかった。どうか安らかに。
――小谷研一氏(小谷研一建築設計事務所)
恩師小嶋一浩先生が亡くなったのを知った翌日、午前中に現場打ち合わせを終えた時点で居ても立っても居られず、小嶋さんの自宅へ向かいました。いつも「俺に会う時は、どんなことをしているのか報告しろ」と仰っており、進行中の複数のプロジェクト、メディア掲載などの報告ができると思っていた矢先でした。
出会いは学部3年時の設計演習課題でした。発表の際、何も説明できず困っていると、小嶋さんは私の代わりに作品について余す所なく言語化し、鮮やかに解説してくださいました。授業後、「建築に興味があるのであれば、私のところへ来なさい」と声をかけていただきました。大学院では国際コンペファイナリストとしてローマへご一緒する機会がありました。その帰路、「俺たちはコンペで勝つことで自分の立ち位置を確認するしかない。勝った事実を形に変えておくべきだ。それを糧にモチベーションを保つんだよ」と建築家としてのスタンスを教えてくださいました。
コンペに勝ち続け、ギャルソン、ヨージ、イッセイに身を包み、サングラスをかけてポルシェで現れる。私のなかで憧れの建築家であり続けています。小嶋さんに出会わなければ、こうして建築家として活動していなかったでしょう。本当にありがとうございました。
1958年大阪府生まれ。’82年京都大学工学部建築学科卒業。’84年東京大学工学研究科建築学専攻修士課程修了。’86年東京大学大学院博士課程在学中にシーラカンスを共同設立。’98年C+A(シーラカンスアンドアソシエイツ)に改称。2005年CAt(C+A tokyo)とCAn(C+A nagoya)へさらに改組。CAtパートナーとして設計活動をする一方、東京理科大学や横浜国立大学大学院“Y-GSA”の教授に就くなど建築教育者としての評価も高かった。2016年10月13日逝去。享年57